煉瓦研究ネットワーク東京 新永間市外線高架橋2
2.煉瓦構築物の耐震性
新永間市街線高架橋(以下高架橋)を語る上で、関東大震災を外して語ることはできない。
高架橋は1909年(明治42年)9月に東京駅手前の呉服橋仮停車場まで開通し、1914年(大正3年)12月の東京駅開業とともに、東京駅まで乗り入れている。
東京駅開業後9年目の1923年(大正12年)9月に関東大震災は発生した。関東大震災以降煉瓦構造物は衰退し、鉄筋コンクリート造、あるいは鉄筋鉄骨コンクリート造に取って代わられていく。
関東大震災で、浅草の凌雲閣(1890年(明治23年)竣工、煉瓦造(1~10階が煉瓦造、11、12階が木造))が8階から上が崩れ去ったのは、あまりにも有名だ。
しかし見方によっては8階まで震災に耐えたともいえるだろう。それでは他の煉瓦構造物はどうだったのだろうか。
東京駅は、地震の揺れによる被害は全くなく、迫りくる火の手も駅員による消火、延焼防止活動により防いでいる(東京帝国大学罹災者情報局調査 帝都大震火災系統地図(以下系統地図))。
しかし、新橋駅の駅舎は倒壊こそしなかったものの火の海に巻き込まれて全焼している。(系統地図参照)
高架橋の東側に位置する銀座には、近代化の象徴ともいえる煉瓦建物が軒を連ねていた。
1872年(明治5年)銀座大火の後、都市の不燃化を目指して官営事業として政府は煉瓦建物を分譲した。
(筆者所蔵 三代目歌川広重作「東京名所之内銀座通煉瓦造」)
煉瓦街の由来など詳細は別稿に譲るとして、築後40年前後を経て罹災した銀座煉瓦街の被害を見てみよう。
建物の47.8%が煉瓦造りであった銀座地区における地震(現在の震度基準に照らすと6弱~6強程度と推測される)による煉瓦建物の直接的な被害は、
被害なし 8棟 21%
亀裂 20棟 51%
一部崩壊 8棟 21%
全壊 0棟 0%
不明 3棟 7%
(震災予防調査会 震災予防調査会報告第百号丙上)
となっている。
さらに建物崩壊による圧死者は無く、煉瓦造の建物は、関東大震災程度の地震に対して最低限の耐震性を備えていたといえる。
しかしながら、銀座煉瓦街は、地震後に発生した火災により壊滅した(系統地図参照)。
関東大震災は東京の被害が目立っているが、実は震源に近い神奈川県、特に横浜の被害は甚大なものがあった。
横浜といえば『横浜赤レンガ倉庫』があまりにも有名であるが、震度7の揺れに襲われた赤レンガ倉庫が次の写真である。
中央部分が崩れているが、その左右の損傷は軽微のように見える。この写真の手前の位置にある二号館は無事だったといわれている。
それでは高架橋はどうだったのだろうか。前掲の新橋駅の後ろに無傷の高架橋が写っている。
次の写真は、有楽町から新橋・銀座方面を観たものであるが、こちらも見事に無傷の高架橋が写っている。
見事に関東大震災の揺れを耐えたのだ。
しかし、その後発生した火災で一部の区間が火を被っていることは、火災系統地図をみるとお分かりだろう。以下に系統地図の新橋駅付近を拡大してみた。
浜松町から新幸橋架道橋(現在の第一ホテル)前までの区間と、有楽町橋高架橋の一部が、北、あるいは北西からの火の手に襲われ、残念ながら線路を超えて南、あるいは南東に飛び火している。
4線、幅約20mを有する高架橋をもってしても防げないくらいの大火であったのだ。
以上、関東大震災における煉瓦構造物の代表例をあげたが、もちろん倒壊してしまったものも少なくない。
しかし、きちんとした設計、施工で建てられた煉瓦造りの建造物は少なくとも震度6程度の揺れには耐えられるということが、お分かりだろう。
次のYoutubeの耐震実験の結果を見ても明らかだろう。
つづく