煉瓦研究ネットワーク東京 新永間市外線高架橋3
新永間市街鉄道高架橋 第一区間
第一区間は、新銭座町(現在の浜松町1丁目2番、5番)から幸橋架道橋までの約950mである。
この区間の高架橋は、現在西側から京浜東北線、山手線、東海道線、新幹線の4複線(横須賀線はこの区間地下を走っている)であるが、そのうち西側の4線(京浜東北線、山手線)が開業当時の高架橋を使用している。東海道線は昭和11年以降に外堀を埋め立てて建設された。
次の航空写真は、1936年(昭和11年)6月の撮影であるが、現在の東海道線の高架橋は、更地になって建設準備をしているように見受けられる。
1936年の新橋航空写真 国土変遷アーカイブB29-C2-32
第一京浜南側はすでに取り壊されてしまっているので、第一区間では第一京浜と高架橋が交差する『原助橋架道橋』から『幸橋架道橋』までを考察する。
上の地図をご覧いただくと、架道橋(ガード)と架道橋の間は、それぞれの町名をとって名付けられていることがわかる。
どの区間でも共通する点であるが、高架橋の東側は東海道線の高架橋が隣接して建設されているため、現在では、ほとんど観察できる場所がない。
一方西側は高架橋沿いに道路や通路があるためよく観察できるが、逆にそれがあだとなり、高架下の活用で店舗等が作られ、表面が塗装されていたり、建築材やコンクリートで覆われていて、原型を保っているところは少ない。
さて、原助橋架道橋から歩みを進めていくと、高架橋西側は一見するとなんの装飾も施されていない小口積みの欠円アーチの連続のように見える。
しかしよく見ると、最上部の煉瓦積み数段の様子が下部の壁面と異なりかなり荒れている。
詳細に観察していくと、次のような写真の部分を発見した。
これは15mmの化粧煉瓦の端が割れているのである。東京駅は躯体の煉瓦に厚さ15mm、場所によっては45mmの化粧煉瓦が貼られているが、これもその化粧煉瓦と同じように見える。
また、表面がとても綺麗に揃っていることからも、化粧煉瓦貼りであることが容易に推測される。
高架橋のこの辺りは、前項「2.煉瓦構築物の耐震性」でふれたとおり、大正関東地震(以下関東大震災)の折、北及び北西からの火に焼かれている。
従ってこの小口積みは、火に焼かれた表面を小口積みの化粧煉瓦を貼って修復したのではないかと推測される。
火の手の風下側の原助橋架道橋東側に行くと、アーチの上にイギリス積みが見えているが、新橋駅方向に目をやると、途中から小口積みに変わっている。
写真中央から左と右の目地の色が違うところを境に積み方が変わっているが、右がの小口積みが修復の跡ではないだろうか。
次の震災当時の新橋駅の写真(筆者所蔵の絵葉書の一部)の右端に写っている高架橋にご注目頂きたい。アーチとアーチの間にメダリオンが見えるのがお分かりだろうか?
次の写真(筆者所蔵絵葉書)にも、左端の高架橋をみていただくと、かすかにメダリオンが写っている。
残念ながら第一区間における西側には、一つもメダリオンは残っていないが、日陰町橋高架橋の東側には、メダリオンが残っている。おそらく創建当時のものだろう。
近づいてよく見てみると、メダリオン専用の煉瓦で形作られていることがわかる。
震災前は、両側とも第一区間全体のアーチ間にメダリオンを用いて装飾されていたのだろう。
西側には何か所かイギリス積みが残っているが、おそらく損傷が補修するほどでもなく、そのまま残されたものと推測する。
架道橋(ガード)の橋台は、表面が綺麗に揃っていることから躯体に化粧煉瓦貼りではないかと、項番1で申し上げたが、日陰橋架道橋の橋台に欠けているところがあり、推測通り、15mmの化粧煉瓦が貼られていることが見て取れる。