2021-05-02

2021.05.02  高輪築堤 序 新橋⇔横浜間鉄道開業

先日JR東、港区さんの許可を頂いて『高輪築堤』を見学をさせて頂きました。

まず最初に高輪築堤について、おさらいしておきましょう。

明治維新前後のアジアは、欧米列強諸国による植民地化が進んでいましたが、明治政府は富国強兵策を推し進めて、近代國家としての評価を欧米列強から得ることにより、回避しようとしました。

そういった背景の中、近代化の一つの施策として鉄道敷設を急いだのでした。

明治2年(1869年)に全長29kmの東京横浜間への敷設が決まると、明治3年(1870年)に着工しました。次の図は、鉄道が敷設される以前の高輪海岸の様子です。左手に高輪大木戸が描かれていますね。

【国会図書館所蔵 東都名所高輪全図 一立齋広重】
国会図書館所蔵東都名所高輪全図一立齋広重.jpg
【国会図書館所蔵 春の都路東都高輪風景 五雲亭貞秀(歌川貞秀) 文久三年】
国会図書館所蔵文久三年春の都路東都高輪風景五雲亭貞秀(歌川貞秀).jpg
全長の1/3にあたる10kmが、海上に築堤を築いて走らせることとなりました。このうち田町、品川間の2.7kmは、陸地側に海軍用地などがあったため、高輪海岸沿いに築堤が築かれました。これが高輪築堤です。

明治後半になって海岸沿いの埋め立てが始まると、何時しか高輪築堤の存在は忘れ去られていました。

【国会図書館所蔵 東京蒸気車鉄道一覧之図 孟斎芳虎 明治4年】
国会図書館所蔵東京蒸気車鉄道一覧之図孟斎芳虎明治4年.jpg
上の図は、開業する1年前の明治4年に描かれたものですから、工事中の様子から想像で描かれたのでしょうか。一番左には築堤の上を横浜方面から川崎に向けて走る蒸気機関車が描かれています。

写真は、高輪築堤の現在です。ビルが円弧上に並んでいて、その外側に第一京浜国道(国道15号線)が通っていますが、これが旧東海道筋でビルが立ち並んでいる辺りが高輪海岸のあった位置です。
高輪築堤4街区.jpg
明治5年(1872年)6月12日に品川横浜間で仮開業すると、同年9月12日(1872年の10月14日)には、新橋で式典が行われ、天皇陛下をお乗せしたお召列車が横浜まで往復運転されました。

写真は、鉄道文化振興会所蔵の版画です。右上に『広島行幸新橋御着輦(ちゃくれん)之図』とあることから、鉄道開業時、新橋駅に明治天皇をお迎えして開かれた開業式典ではなく、明治18年(1885年)8月3日に山陽道巡幸の祭の出発のご様子ではないかと推測します。開業式典は之よりもっと盛大だったことでしょう。
明治天皇行幸.jpg
新聞報道等でJR東日本は、品川開発プロジェクト(第Ⅰ期)について、4月21日に次のように公表されています。

品川プロジェクトエリア内で出土した高輪築堤について
橋梁部を含む約80mおよび公園隣接部約40mの2個所を現地保存とする
信号機土台部を含む約30mを移築保存とする
以下略

橋梁部は、3街区(泉岳寺駅付近)に、信号機土台部は4街区(高輪ゲートウェイ駅付近)にあります。

以下JR『都市再生特別地区(品川駅北周辺地区)都市計画(素案)の概要』より抜粋
都市再生特別地区(品川駅北周辺地区)都市計画(素案)の概要.jpg
新型コロナ禍にあって運賃収入が減少する中、経営の改善には不動産賃貸収入を増強することが不可欠という考えで、すでに工事発注していることから、開発を大きく見直すことはしないようです。これに関しては、様々な意見があることと思います。以下は、あくまで私の私見です。

テレワークなどの浸透から都心部での事務所需要が減少するなか、当初の計画通りこの広大な開発を推し進めることによって、逆に経営の足を引っ張ることになりかねないのではないでしょうか。

さらに保存の方法によっては、世界遺産にもなり得るような近代産業文化遺産を、開発を優先して取り壊してしまうことが是とされるのか疑問です。今後発掘される部分も含めて、現場で保続してほしいものです。

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