2021.05.04 高輪築堤 1 海上を走った蒸気機関車
さて、今回は築堤の現状について見ていきましょう。
高輪築堤は、海岸沿いの埋め立てが進むことによって、長らくその存在が忘れ去られていました。
ところが、高輪ゲートウェイ駅を開設する際、京浜東北線、山手線の線路を海側(東側)に付け替えたことにより、ほぼ従来の京浜東北線の直下から築堤が発見されました。
開業当初の路盤面から京浜東北線の路盤面まで推定50cmしか積みあがっていなかったことから、路盤面は埋め立てられることなく、そのまま長年バラストを積み上げていったものではないでしょうか。
写真1は、空鉄でおなじみの写真作家吉永陽一さんから頂いた写真です。
◆写真作家吉永陽一さん提供空撮写真(写真1)
左端の交差点が泉岳寺で、交差点から中央下に向かっている道が高輪ゲートウェイ駅へ入る道路です。中央右上から左下に写っている築堤が第三街区全景で、中央下には第七橋梁、中央上には提灯殺しのガードが写っています。
提灯殺しのガードについては、このリンクをご覧ください。
まずは出土した築堤を観察してみることにしましょう。
図1は築堤の断面図です。皆さん『築堤』と聞くとハの字形の堤を想像することと思いますが、実は海側(東京湾に面している東側・・・図1左側)は、約30度の傾斜で作られているのに対して、山側(高輪海岸に面している西側・・・図1右側)は、明治5年の開業当初のものも、明治32年の拡幅時のものもほぼ直立に近い角度になっています。
◆図面(図1) 高輪築堤内部構造想定図・・・港区作成
写真1-2は吉永さんからご提供いただいた空撮写真で、築堤直上から撮られています。この写真では上が海(東)側、下が山(西)側です。
◆築堤上面(写真1-2)
◆山側谷積み(写真1-3)
写真1-3は、明治32年拡幅時の山側の石積みですが、ほぼ直立に近い角度で積まれています。また、開業当初の築堤は布積みでしたが、こちらは谷積みで積まれています。
石積みの最下段は、東京湾平均海面(以下TP このTPが日本の標高0m)マイナス1m位で、お台場とほぼ同じ水準となっています。石積み3段目くらいが海水面(TP=0)くらいでしょう。
全体のイメージは写真2をご覧ください。土砂の流出を防止するためでしょうか、築堤外側には数十cm間隔で松杭が打たれています。
松杭は、海底面下2~2.5mの粘土層に達しているようです。写真6は引き抜かれた松杭です。先端は8角に落とされています。
現在販売されている松杭は4角に、明治40年代に建築された東京駅の基礎に使われた松杭は6角におとされていることから、この時代は手間をかけた丁寧な仕事をしていますね。
最下部には、胴木を横に渡して松杭で押さえ、横長に成形された凝灰岩(写真5)を置いた上に、ほぼ四角の安山岩(写真4)を布積み(積んだ石の目地が横に通るように積む)で積んでいます(写真2、3)。
◆全体イメージ写真(写真2)中央部分が信号所跡
表面の石積みの裏側の裏込め石は、断面を見ると一般的には斜面と並行に入れられていることが多いようですが、ここでは上端から直下まで三角形を描くように積まれていま入れられています(図1)。
◆積み方拡大写真(写真3)
◆安山岩拡大写真(写真4)
◆凝灰岩拡大写真(写真5)
◆松杭写真(写真6)
◆松杭先端部分(写真7)
さて、築堤の上部の表面の石がはがされていますが、これは、築堤から東側にさらに埋め立て工事をするときにどこかに流用するために?がされたと考えられています。
◆昭和初期地形図+現代の地図(図2)
図2は、昭和初期の地形図に現代の地図を重ねてみたものです。
明治の終わりに東に向かって埋め立てが進められましたが、その海岸線は、なんと新設された高輪ゲートウェイ駅の直ぐ東側に設けられていることが判ります。
さらに第七橋梁から海に出る水路が描かれています。ここら辺を掘れば、築堤の上部から流用された石で作られた護岸が出てくるかもしれませんね。