2021.05.09 高輪築堤 その2 再び日の目を見た鉄路
ここに一枚の蒸気機関車が、海辺を走る絵葉書があります。
◆絵葉書(写真1)
ここに写っている蒸気機関車は6400形です。この蒸気機関車は官設鉄道が輸入した旅客列車用蒸気機関車で、明治35年(1902年)に、アメリカのアメリカン・ロコモティブ社で製造され、30両輸入されました。明治時代後期を代表する旅客列車用テンダー式蒸気機関車の一つです。
蒸気機関車の種類を特定するため、一般社団法人鉄道文化振興会の代表理事と意見交換させていただきました。その際、
①6400形は東海道線では下り・・・新橋駅午前8時発、神戸21時20分着、上り神戸8時発、新橋21時20分着の最急行(現在の特急とほぼ同義)に運用されていたので、新橋に向かっているとすると時間が合わない
②線路の右側を走っているように見えるが、それでは逆走となるが煙は後ろにたなびいていることから逆走はしていない
との点から、裏焼の写真・・・鏡像で実は新橋から神戸に向かっているのではないかという点が議論になりました。
しかし、
①ここは明治32年(1899年)に山側に一線増やされていることから、最初からある複線で旅客輸送を賄っていたとすれば、海側が横浜方面の下り、中央が新橋方面の上りとなり、中央を走っているのは上り列車
②蒸気機関車は緩やかなカーブを走り抜けてくる雄姿であるが、品川駅を出ると高輪ゲートウェイ駅手前で進行方向右にカーブしている。
今回高輪ゲートウェイ駅前の第四街区から発見された信号所跡の信号が絵葉書の信号とすると、カーブとの位置関係はほぼ一致する(前回も掲出した地図1参照 地図上で信号所の位置は、『高輪ゲートウェイ』と青字で書かれている『ト』の位置辺り)
以上のことから、最急行ではなく新橋方面に客車を牽引している6400形ではないかという事になりました。
一つは、この写真が撮られた時期が明治42年(1909年)以前ではないかという点です。
なぜなら、明治42年に『車輛形式称号規程』が制定され、絵葉書の蒸気機関車はそれに基づき6400形となりますが、それ以前は600形として運用されていました。
写真では不鮮明ではっきり判りませんが、少なくとも皆さんよくご存じの蒸気機関車のヘッドプレートが付いているようには見えません。
もし明治42年以降であれば『64●●』という横長で真鍮製のプレートが付いているはずです。それ以前は前面ボイラーの丸い蓋の中心に600番台の番号が貼られていたはずです(写真1-2)。
◆官設鉄道600形(写真1-2 wikipediaより転載)
とすれば、新たな疑問が湧いてきます。絵葉書に山側には石積みの築堤が写ってないことから、山側と地続きになっていると考えられます。
明治32年に拡幅された時に、ここ第四街区では山側に築堤は築かれず埋め立てられたのか、あるいは明治32年には築堤が築かれ山側にも海があったが、明治42年以前のどこかで埋め立てられたのか。
色々な古地図を当たってみましたが、いずれも地図が描かれた年代が特定出来ず、まだこの謎は解けていません。
さて、前回も取り上げた次の写真をご覧ください。
◆全体イメージ写真(写真2)中央部分が信号所跡
写真中央に石垣が上に伸びているところがありますが、これが信号所跡です。もう少し拡大したものが次の写真3-1、3-2です。
◆信号所跡拡大(写真3-1)
◆信号所跡拡大(写真3-2)
この信号所跡には、木材を十字に組んだ信号機の基礎が発見されています。写真3-2でなんとなく木材が埋め込まれているのが、判ります。
次の写真は写真作家の吉永さんが撮られた第四街区の空撮写真です。
◆第四街区(写真4)
この中央やや右に信号所が写っていますが、吉永さんの許可を頂いて私がトリミングしたものが、次の写真5です。
◆信号所跡拡大(写真5)
絵葉書にもあるとおり、ここにあったのは腕木式信号機でした。次の写真の腕木式信号機は、鉄道文化振興会が保存・公開しているものです。
◆腕木式信号機(写真6)