煉瓦研究ネットワーク東京 フィールドワーク7 八王子編7
京王八王子駅近くの福伝寺を後にすると、甲州街道を下り追分町近くの八王子市内のある小学校へと向かった。
この小学校の歴史は古く、ホームページを確認すると1873年(明治6年)までさかのぼる。
現在地に移転してきた1891年(明治24年)のことだ。その小学校の東側に一部煉瓦塀が残っているのだ。
次の写真は、校庭側からみたところ。
次の写真は、校庭の外側からみたところで、地権者の方の許可をいただいて撮影した。
(写真右下の煉瓦塀の手前の煉瓦を積み上げて作られた台は地権者の方が作った最近のものである。)
この積み方は、フランス積みである。代表的な積み方の一つのフランス式を見てみよう。
一列の中に、長手と小口を交互に並べているものだ。
一方イギリス式は、一段ごとに長手積みと小口積みを繰り返していくものだ。
地権者の方に話しを伺うと、この煉瓦塀は、以前はかなりの高さがあったということであるが、「まるで監獄みたいだから低くして欲しい。」と申し入れて、この高さになったという。
いつごろ、どういう経緯で煉瓦塀が築かれたのか不明であるが、かなりの高さがあったということから、防火壁の機能を持たせて作られたのではないだろうか。
1897年(明治30年)4月22日、八王子は未曾有の大火に襲われた。八王子市街の大半を焼く大火事となり、焼失戸数3100戸、死者42名、負傷者223名にものぼった。
通信が火災による途絶したため、伝書鳩を使って東京の中枢に被害状況を知らせたことは有名だ。
大火後現存しないものの、煉瓦造りによる防火壁が八王子市街の中心部に設けられたことからも、この小学校の煉瓦塀は、校庭に避難した人々を火災から守るために造られたものとは考えられないだろうか!?
煉瓦塀の一部に城っぽく何かをはがしたような痕があったが、地権者のかたに伺うと、ここには以前タイルが貼ってあったそうだ。