目次
煉瓦構築物
煉瓦は建物以外にも、隧道、橋梁、高架橋、塀など、様々な用途に用いられました。このカテゴリーでは、建物以外の煉瓦構築物を取り上げます。
佐藤病院外壁
裏側は普通の煉瓦塀になっています。
佐藤病院外壁裏
焼きしめられている側はそうでない側に比べて数ミリ小さいことから、綺麗な直方体ではないため、まっすぐに積み上げるにはかなりの技術が必要だったと思われます。この煉瓦塀には、次のような刻印を観ることができます。
この刻印の「山本」の文字から、近くにあった山本煉瓦工場で製造された煉瓦だとわかります。
西表島宇多良炭坑煉瓦遺構
西表島にある宇多良炭坑は、かつて沖縄県唯一の炭鉱でした。西表島での採炭の歴史は1886年(明治19年)までさかのぼります。
西表島宇多良炭坑 NT氏撮影
ここ宇多良炭坑は、1936年(昭和11年)に丸三炭坑宇多良鉱業所として開坑されました。
西表島宇多良炭坑 NT氏撮影
ジャングルを切り開いて、坑夫の宿舎や集会所、食堂、売店などが建設され、最盛期には数百人が働いていたといわれます。
西表島宇多良炭坑 NT氏撮影
太平洋戦争が始まると、石炭輸送が困難となり、1943年(昭和18年)に操業停止した。2007年には日本近代産業遺産群の認定を受けています。
墓に用いられた煉瓦
八王子市長沼
煉瓦工場に関係する人々の墓は、煉瓦を用いて作られることが多く、次の写真は八王子市長沼にあった煉瓦工場(後の大阪窯業長沼工場)の工場長の墓です。
八王子市長沼の法蔵寺にある煉瓦工場長の墓1
墓の基壇部分に焼過煉瓦を使って、上面には化粧タイルが貼られています。
八王子市長沼の法蔵寺にある煉瓦工場長の墓2
品川区東海寺大山墓地
東海寺大山墓地にある白煉瓦技師の墓所 SS氏撮影
東海寺大山墓地にある白煉瓦技師の墓所 SS氏撮影
耐火煉瓦というと品川の白煉瓦が有名ですが、その技師の墓が品川区北品川にある東海寺の大山墓地にあります。
墓地の周囲を煉瓦で囲い、墓石は煉瓦によく似あった色合いのものが使われています。
八王子市明神町福田寺
福田寺の墓所には立派な煉瓦タイルを貼った墓所があります。
福田寺にある煉瓦製造会社創業者の墓1
1910年(明治43年)八王子に設立された煉瓦製造販売、煉瓦工事土木建築工事請負業の創業者の墓所です。
福田寺にある煉瓦製造会社創業者の墓2
裏側に回ると、銘板の上の意匠をこらした模様が素晴らしいです。この墓のすぐ近くに、もう一つ注目すべき墓があります。
福田寺の墓1
基壇と背後の塔婆を立てる部分に煉瓦が使われていて、墓の前にはモザイク模様にタイルが貼られています。
福田寺の墓2
この墓の由来は判明していないです。
新永間市外線高架橋
1900年(明治33年)に建設の始まった高架鉄道は、当時東新橋界隈を『新銭座』、大手町付近を『永楽町』と称したことから『新永間市外線高架橋』と呼ばれました。
1889年(明治22年)に新橋、神戸間が開通した官設鉄道と1883年(明治16年)に上野、熊谷間が開通した私鉄の日本鉄道を結ぶものです。
ベルリン市街架鉄道 MM氏撮影
上の写真は新橋駅前のSL広場・・・と聞いても誰も疑うものはいないでしょう。実はこの写真はベルリン市街高架鉄道です。
ドイツ人のヘルマン・ルムシュッテルはベルリン市街高架鉄道をモデルに計画すると、ベルリン市街高架鉄道の建設に携わったフランツ・バルツァーを呼び寄せて設計させたものです。
次の写真は新永間高架橋の内幸町高架橋の半円アーチです。新永間高架橋で使われているアーチはほとんどが欠円アーチであるなか、唯一ここに半円アーチが二か所存在しています。内幸町高架橋全体が、このような形で焼過煉瓦をうまく使って装飾されています。
内幸町高架橋
八ツ沢発電所導水路
八ツ沢発電所関連施設は、1910年(明治43年)に電燈(現東京電力)が建設を始め、1914年(大正3年)に竣工しました。この発電所に水を供給するため、桂川沿いに約14kmに及ぶ導水路が設けられていることを知る人は多くありません。
観音崎第二砲台通路
三浦半島先端から浦賀水道に入ってくると、東に大きくせり出している岬が観音崎です。東京湾要塞の沿岸砲台として設けられた観音崎には、いくつかの砲台がありますが、その中から第二砲台につながる通路をご紹介します。
観音崎第二砲台隧道
メインの隧道は切石を積んだ造りになっていますが、この隧道から枝道が弾薬庫に伸びる通路は煉瓦造りとなっています。
観音崎第二砲台通路
次の写真は、弾薬庫から砲台に砲弾を運搬する揚弾路で、この揚弾路はフランス積みになっています。
観音崎第二砲台揚弾路
東海道線門ノ前橋梁(大阪府茨木市)
次の写真は、大阪府茨木市にあるねじりまんぽの構造をもつ『門ノ前橋梁』です。ねじりまんぽについては、『煉瓦ミニ知識』のねじりまんぽをご参照下さい。
門ノ前橋梁
茨木駅から約1.8km高槻よりの住宅地にあり、周辺は閑静な住宅街で生活道路になっているのか、歩行者や自転車、車の往来は頻繁です。ここ門ノ前橋梁は、東海道線が開通した1876年(明治9年)に設置されました。
門ノ前橋梁
近づいてみるとかなりの大きさで、天井高は約3.2mあり、南側から北側に向けて緩やかな上り傾斜になっています。上の写真は、南側から北を望んだものです。
ここ門ノ前のねじりまんぽの特徴は、側壁とアーチ部分の境に斜めの煉瓦の角度に合わせて拉げをつけた迫受石があることです。
門ノ前橋梁外観
まずは外観を観察してみましょう。アーチ部分は4重に巻かれており、一般的には3~4重が多いといわれています。中に入ってみると、迫受石が見事な幾何学模様を作っています。次の写真は南側から見たところです。
門ノ前橋梁南側
対して次の写真は北から見たところです。北側は南側にはない煉瓦の翼壁が付いています。隧道に向かって左手は煉瓦の翼壁ですが、右側は後日の改修なのかコンクリート造りの壁になっています。アーチ中央部分に生えている羊歯は、まるで正月のお飾りのようにも見えます。
門ノ前橋梁北側
次の写真は、拉げをつけた迫受石のアップだ。しっかり計され尽くして、加工されたのだろう。先人の苦労が偲ばれます。
迫受石
ここでこのねじれの起拱角(側壁とアーチ部分の煉瓦の角度)を測ってみました。
今回は近くの100円ショップで分度器、定規、タコ糸、両面等を用意し、こんな原始的な傾斜計を作ってみました。(後日ふと思い当りスマホで「水準器」と検索したら立派なアプリを見つけたのには、なんでこの時に思い当らなかったのかと後悔しきりでした。)
数か所を計測した結果、起拱角の平均を10度とし、これを公式に当てはめて計算すると、斜架角は約75度となります。
tanβ=2/(π tanθ)・・・詳細は、異次元への入口のような『ねじりまんぽ』その1 をご参照ください。
次にから測った斜架角は81度となり、同じく起拱角を計算すると約5.8度となります。この結果この隧道のは、理論値より多少強く渦巻いているということが言えます。
tanβ=2/(π tanθ)
スマホのアプリを使って測定していれば、もう少し正確な結果が出せたかもしれません。迫受石の上に積まれた煉瓦は、小口、長手の他、長手と小口の中間の長さの七五分の煉瓦を使って、煉瓦と煉瓦の間の縦の線が上下でずれるように、さらに一段おきに揃うように考え抜かれて積まれています。
迫受石の上に積まれた煉瓦
狼川橋梁
ここ狼川のねじりまんぽは1890年(明治23年)、東海道本線開通時に作られたものです。当初、線路は天井川の下をくぐり抜けるように作られていましたが、現在は川の上を通過しています。
狼川のねじりまんぽ
ここのねじりまんぽの珍しい点は、出入り口のみ屈曲している点です。このようなものは、全国で2例しか知られていません。
ねじりまんぽ
もともとねじりまんぽは、隧道が鉄道と斜めに交差するために、トンネルの強度を考えて線路と直交するように煉瓦を積んだ結果、隧道の中から見ると渦巻きを巻いているように見えるというものでしたが、「ねじらなくてもあまり強度には関係ない」という学説もあります。
なぜ出入り口のみねじって、トンネルの中間は普通に積んだのでしょうか?国会図書館にある明治時代の翻訳書『斜架拱』などを参考に、模型を作ってみました。
中間部分はあえて短めにして、側壁部分は省略しアーチ部分のみとした。
如何でしょうか?ここはいずれもう一度訪れたいところです。
ねじりまんぽ