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東京芸大1号館
明治13年(1880)に現在の科学博物館の前身教育博物館書籍閲覧所の書庫として当時工部省技官であった林忠恕により設計され、工部省により建てられました。
外装は煉瓦造り2階建て、寄棟、瓦葺となっている。現在は耐震補強も終えて1階を芸大OB会事務所、2階を談話室として活用されています。
東京芸大1号館
明治10年代までの煉瓦建築物は、フランス積みが多いといわれている中、この建物はイギリス積みで建てられています。
1号館は建設当初からモルタルが塗られていて、長らく煉瓦造りであることが人々の記憶と記録から忘れ去られ、1978年(昭和53年)に取り壊されることになりました。
工事が始まり表面のモルタルを割ると、中から煉瓦がでてきたため取り壊しは一時中止となり、紆余曲折を経て保続が決まり、2005年(平成17年)耐震補強を終えて現在に至っています。次の写真は現在の写真です。
東京芸大1号館外壁
表面は凸凹に削られ一部モルタルが残っているが、これは剥がす時の工事によるものではなく、建設当初モルタルを塗る際剥離を防止するために、煉瓦の表面を凸凹に削って塗られたものです。
東京芸大2号館
東京芸大2号館入口
八王子市 塚本家米蔵
1918年(大正7年)に、大阪窯業長沼工場の煉瓦を使って建てられました。
塚本家米蔵 全景
長沼工場で作られた焼過煉瓦を安く譲り受けて建てられたと言われており、現在は米蔵の内部を改装して喫茶店として利用されています。
三代目歌川広重作 「東京名所之内銀坐通煉瓦造」
1872年(明治5年)4月5日午後3時頃、和田倉門内の兵部省から出火した火災、丸の内から銀座、築地と燃え広がり、95万㎡を焼き尽くして午後10時過ぎに鎮火。世に言われる「銀座大火」です。
政府はお雇い外国人でアイルランド出身のウォールスに設計を依頼して、西洋流の不燃都市の建設を目指します。同年8月に着工すると、翌年にはロンドンのリージェントストリートをモデルにしたといわれる銀座煉瓦街が姿を現しました。
ただ、すべてが煉瓦造というわけではなく、外観に漆喰を塗ったものや、煉瓦造りの1階の上に木造の2階をのせたような建物もあったといいます。
次の木版画は、三代目歌川広重作 「東京名所之内銀坐通煉瓦造」の木版画だが、銀座の煉瓦街というと教科書にも登場するような有名なものです。
三代目歌川広重作 「東京名所之内銀坐通煉瓦造」
銀座から発見された煉瓦の遺構は、江戸東京博物館と江戸東京たてもの園にありますが、煉瓦の積み方は見た感じが美しいフランス積みを用いて造られているようです。
三代目歌川広重作 「東京名所之内銀坐通煉瓦造」
次の建物は、目地が描かれていないことから、漆喰が塗られているのでしょうか。
三代目歌川広重作 「東京名所之内銀坐通煉瓦造」
街に描かれた人々に目をやると、ちょんまげを結っているもの、中華服をきているもの、和装、洋装、色々いて、見ているだけで楽しいです。
三代目歌川広重作 「東京名所之内銀坐通煉瓦造」
(筆者所蔵 三代目歌川広重作 「東京名所之内銀坐通煉瓦造」より掲載)
内閣鉄道局長野出張所長野器械場
残念ながら、建物の写真は無いです。
旧国鉄長野工場は、1890年(明治23年)に内閣鉄道局長野出張所長野器械場として開設されましたが、残念ながら1969年(昭和44年)に解体されました。
次の写真は、その際でた煉瓦の廃材をモニュメントとしたものです。
旧国鉄長野工場に用いられた煉瓦
以下、その煉瓦の裏側に記された解説をそのまま記載させていただきます。
明治21年今の信越線が直江津線として軽井沢まで建設され、長野県に初めて鉄道が開業したのに伴い、明治23年2月16日内閣鉄道局長野出張所長野器械場が誕生した。これが今の国鉄長野工場の前身であって、官設としては国鉄最古のものである。
以来、明治、大正、昭和の三代の永きに亘り、長野駅裏の古風な赤レンガ造りの工場は、県下および近郊各線区に活躍する数多くの蒸気機関車、客貨車等の修繕を担当し、地域経済発展の基盤である輸送業務に蔭の力として貢献してきた。
昭和39年平林地籍に本工場が移り、栗田分所となったが、本工場が国鉄長期計画により完成した信越、中央両線電化等に対応し、近代車両修繕工場として整備拡充されるに伴い、昭和44年3月創立以来満79年の輝かしい歴史に終止符をうって閉鎖となり、本工場に集約された。
長かった蒸気鉄道時代を逞しく生き、近代化の進展によりやがてその姿を消そうとする蒸気機関車とその命運をともにしたが、その伝統は受け継がれ、その偉業は甲信越交通史上に末永く語り伝えられることであろう。
日野市飯綱大権現
今回は、『建物』といっても建物の基礎の部分が煉瓦造りになっている建物をご紹介します。
日野市にある飯綱大権現は、言い伝えによれば1199年(正治元年)に創建されましたが、1428年(正長元年)にご神体がここから程遠くない高尾山に飛び移られた事から『飛飯綱』と呼ばれるようになりました。
また『いずなさま』とも呼ばれて、地元の方々から親しまれています。その後、1827年(文政10年)に再建されたといいます。
日野市飯綱大権現
そのほか、高尾山からこの地にご神体飛んできたという説、武田信玄の息女松姫が、1582年(天正10年)兄勝頼の天目山滅亡のとき、落ちのびての信松院の尼となり、お伴の家来が当地に土着して、故主武田信玄の信仰していた飯綱権現を祀ったという説もあります。
いずれにせよ、高尾山とは関係が深く、文政10年4月3日の棟札には、表に「奉再興飯縄社一宇」と「縄」の文字が使ってあり、裏には「遷宮導師高尾山薬王院住第廿世大僧都法印岳純」とあります。
昔は日野駅西側の小高い丘の上に、百数十段の階段を登ると飯綱権現が祀られていました。ところが1888年(明治21年)、甲武鉄道が敷設される際に現在地に移築されました。甲武鉄道を敷設する際、橋梁などに多くの煉瓦が使われましたが、なんとこの神社が移築されたときに、土台に煉瓦が使われているのです。
日野市飯綱大権現
お堂の中の祠の土台も煉瓦製です。
お堂の中の祠の基壇
ただ、関東大震災のときに一部崩れて修復されているため、この煉瓦が創建当時のものかはわからないです。この飯綱大権現は、日野駅ホームのすぐ脇にありますが、気づく人は少ないです。
中央線日野駅と飯綱大権現
喜多方市若菜家
喜多方市は、釉薬煉瓦で有名なところですが、先日NT氏が調査研究のため訪問された際の写真をアップします。以下写真はすべてNT氏から提供されたものです。
喜多方市三津谷集落にある若菜家は江戸時代から続く旧家ですが、明治から昭和初期にかけて建てられた煉瓦造りの建物が4棟あり、国指定の有形文化財の指定を受けています。最初の写真は、大正5年築の三階蔵です。
次が三階蔵に続く座敷蔵で、こちらは大正6年築となっています。
次が大正10年築の味噌蔵です。
最後に明治43年築の作業小屋です。
旧信越本線丸山変電所跡
旧信越本線の碓氷峠に旧丸山変電所跡が立っています。1912年(明治45年)に碓氷線の列車の電化に伴って設置されたもので、国指定重要文化財に指定されています。
資料によると深谷にある日本煉瓦製造株式会社の焼いた煉瓦が使われていることが判っていますので、その事実を確認するためにネットワークメンバーのT氏が出かけてきました。以下の写真は、T氏提供のものです。