東京湾要塞の一翼を担う『厠』の謎
昨年、一昨年と紀淡海峡を守る由良要塞の友が島砲台を訪れた。
特に昨年は友が島に隣接する虎島堡塁を見学させていただいたが、その中で一番興味を引いたのが虎島堡塁入口にあった厠跡である。
近代築城遺跡研究会編「由良要塞」に寄せられた論文には同様の厠が横須賀にもあるという。
これはぜひとも横須賀も尋ねてみたいと考えていたが、先日横須賀にある観音崎砲台の厠跡を訪れたので、虎島の厠と比較してみたい。
虎島堡塁附属施設の厠
虎島堡塁は、紀淡海峡に侵入してくる外敵から商都大阪を守る為に築かれた由良要塞を構成する砲台の一つだ。
隣接する友ヶ島においては、第3、第4砲台には、将校用の家屋が残っていることから、そこには『便所』があったものと推測できる。
その他は、第5砲台入口に立っている門柱を入ると、すぐ左手に厠のようなそれらしい煉瓦造一部木造瓦葺の建物があるが、それが『厠』かどうかは未確認である。
再度友ヶ島に行く機会があれば、ぜひとも確認してみたい。それ以外には当時の『厠』の遺構は知る限り見当たらない。
写真は、友が島から虎島を見たところ。
明治時代に造られた軍道は台風で中央部分が破壊され、今では干潮時に崩れた瓦礫の上を伝って渡るしかない。虎島堡塁は明治28年10月に着工し、明治30年2月に竣工している。
厠は、明治27年5月に改定された『砲台建築仕法通則』に則って建てられている(近代築城遺跡研究会編由良要塞 Ⅰ 95ベージ)ことから、虎島堡塁の建設時に付属施設として造られたと考えていいだろう。煉瓦積みはオランダ積みだ。
屋根は完全に落ちているものの、梁等の木材の破片や瓦の破片が残されていることから、屋根は瓦葺だったようだ。
次の写真は、小用側から大用を見たところだ。上部に梁の一部が残っている。
出入り口は前後に2か所、アーチづくりの入り口があり、中に入ると、海側に小用スペースとなっており、目の高さの位置は煉瓦を抜積みしていて、市松模様に小窓が開いている。
山側には大用があり、おそらく便壺の上あたりに汲み取り用の四角い窓が開き、顔の高さくらいの場所に十字に抜積みの窓が開いている。汲み取り窓の数から、大用には4つの個室があったことが分かる。
次の写真は、大用から小用の方を見たところ。
抜積み部分には十数個の刻印が確認できる。これは堺煉瓦の刻印だ。
外には、手を洗う場所なのだろうか、コンクリート製の台があるが、貴重な水は雨水を溜めていたのだろう。
このすぐそばに監守衛舎の遺構と推測する土台のみの遺構があるが、ここにはコンクリート造りの濾過・貯水槽が見られた。
次の写真が、厠の前を通り過ぎ営門を入るとすぐ左手にある監守衛舎跡と思われる遺構の脇にあるろ過水槽である。
残念ながら監守衛舎跡は煉瓦の土台を残して崩れ去っている。
観音崎砲台の厠
観音崎に行く前に色々調べたが、厠に関する資料は前掲『近代築城遺跡研究会編由良要塞』に取り上げられているものしか見つからなかった。
同書では、明治24年9月に陸軍大臣に提出された『砲台附属厠建築之件』において、「東京湾防御砲台の中で厠があるのは第一海堡のみで、観音崎砲台に2か所、米ヶ浜砲台に1か所厠を建設する必要がある」と述べていることから、観音崎の厠は明治24年以降のものだろうと推測している。
この文献は、最後に私なりに解読したものを載せているので、もし違っていればご教授願いたい(アジア歴史資料センター C07050357000)。
現地に赴くと近くの駐車場に車を止めて、徒歩で目指した。
高さ2m位のほぼ垂直な石垣をよじ登ると、鬱蒼とした雑木林の中をやぶ漕ぎしながら進む。小さな谷戸を登っていくと、それは突然現れた。
谷戸に平行するように配置され、谷川と山側にアーチ状の入り口が開いている。
虎島の厠は通路を中心に配し、左右に小用と大用を設けていたが、ここは片側に大用のみ設けているため、入口は谷から向かって右側にオフセットされている。
ぐるっと周囲を回ると、山川の入り口の壁は上部が崩れているものの、屋根の梁材や瓦は見つからなかった。
虎島の厠と同じく大用の壁には十字の抜積み窓が開いているが虎島のものとは異なり、上部に煉瓦を5個使用して小アーチを造って装飾している。
そして何よりも驚いたのは、フランス積みなのである。要塞建築における煉瓦積みは、明治20年以降はイギリス積み、あるいはオランダ積みへと変化している。
積み方といい、十字の抜積み窓の手の込んだ小アーチといい、明らかに明治10年代の建築と思われる。使用されている煉瓦を観察すると、小菅集治監の桜の刻印が多くみられる。
続いて向かったもう一つの厠も、雑木林をやぶ漕ぎしていくと、小さな谷戸に今度は直角に交わるように立っていた。残念ながら、荒廃は進み、山側の壁と左右の出入り口の一部の壁を残して谷側の壁は谷に向かって倒れている。
次の写真は山側から残っている壁を撮ったのだが、後ろに木などがあり、下がることができず、超広角で撮影している。
次の写真は、谷側から山側に残った壁を望んだところ。最初の厠と違い、内側にモルタルが塗られている点だ。
最初に見たものと全く同じ構造で、谷側に通路を配し、山側に大用の個室を設けて、下には汲み取り用の窓が、上には十字の抜積み窓があいていて、小アーチで装飾されている。こちらも明らかに明治10年代の造りと思われる。
次の写真は、左手が山側で、右手の壁が切れている部分にアーチ状の入り口があった。
この2か所の厠から一番近いのが旧第3砲台だ。旧第3砲台は、明治15年に着工されており、砲側弾薬庫や通路などはフランス積みで造られていることから、旧第3砲台の附属施設として同時期に建てられたとすれば、辻褄は合う。次の写真は観音崎旧第三砲台である。
上の写真は、砲側弾薬庫から旧第三砲台へと続く隧道で、おそらくここから弾薬をあげたものと思われる。
さて、本当に東京湾防御砲台・・・後の東京湾要塞に、明治24年当時第一海堡にしか厠はなかったのだろうか?
その当時存在した猿島砲台に、たしか厠の遺構があったはずだ。帰宅後過去に猿島砲台を訪れた時の資料をひも解くと、浜から切通しを上っていくと、切通しの中ほどに右に弾薬庫、左手に厠跡があった。
ところが右手の弾薬庫はフランス積みであるが、左手の厠の壁は写真で見る限りオランダ積みで積まれていて、明らかに築造年代か違う。おそらく厠は、明治200年代以降に造られたものなのだろう。
この不整合の謎を如何に解き明かすのか、この謎解きが面白くて煉瓦探訪は止められない。
以下文献を打ち直してみたものだ。
受領番号伍第六四一号
庁名 工兵第一方面
件名 砲台附属厠建設の件
提出 二十四年九月一日
指令案
伺の通
砲台附属厠建設の義に付き伺
一金五百三十一円四十八銭 厠三か所建設費
東京湾防御砲台期成の分にして厠の設あるは目下第一海堡のみにして他砲台に在りては未だ其の設無の右は有事の際適宜其場所を見計らい仮厠建設可致見込に有これ●●観音崎及び米ヶ浜両方台の如きは要塞砲兵演習の為め多数の兵員出入り致し候に付き平索と●●厠の設置必要に付観音崎砲台内に二か所 米ヶ浜砲台内に一か所適宜場所を選定し別紙説計及び図面の如くに建設致し度右費用取調候処本行の金額を可要候御許可の上は本年東京湾要塞砲台建設費の内より支弁致候因て別紙調査図書○添此の段御伺候也
明治二十四年八月一三日
工兵第一方面提理佐々木直前
陸軍大臣子爵髙嶋勤之助殿
千代ケ崎砲台のことも書き記そうとしたのだが、これだけでかなり長くなってしまったので、千代ケ崎砲台のことは、また日を改めたい。